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日本医大問題を知るために

はじめに

 日本医大の問題で、遺族に事実を話した医師の目的は、病院を告発することではなく、「謝罪すること」でした。病院から「手術や治療に問題はない」としか言われず、悩み苦しんできた遺族にとって、医師の謝罪は、長年の心のわだかまりを解くきっかけになりました。

 

 しかし、病院組織から見れば、同じ行為が「内部告発」と映ります。医師を訴えた日本医大側が当初、請求した額は1億3000万円で、法廷ではこの医師に対して感情的な言葉が浴びせられました。

 

 ワイヤが刺さったか否かを巡り、「刺さった」とする4大学の教授・助教授らの鑑定意見書と、「刺さっていない」とする日本医大側の鑑定意見書が真っ向から対立する異例の展開を辿った末、東京高裁は、ワイヤの刺入を否定し、遺族に話したこと自体をも名誉毀損とし、医師は700万円余の賠償を命じられました。最高裁もこれを容認して医師の上告を棄却しました

 

  医師は約550万円の賠償を命じられ、裁判の舞台は最高裁に移りました。

 

 一方、「内部告発」がなければ表に出なかった医療事故は、数多くあります。病院が不慮の死を正直に検証し、家族側とその結果を共有するようにしない限りことをしない以上、医療の改善のために内部告発が大きな意味を持っていることは確かです。

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目次

1日本医大問題の概要
2
日本医大問題の経過
3
新聞報道
4
報道までの経緯
5
関連画像

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1: 日本医大問題の概要

 日本医大問題とは、1997年12月15日に、日本医大附属病院形成外科で下顎骨整復固定手術を受けた埼玉県の高橋陽子さん(当時20歳)が、手術後2日で急死したことが発端です。

 助手を務めた郡家正彦医師は手術中に骨折固定用のワイヤが脳内に誤って刺入されたのを目撃、執刀医のA医師にその場で、また、術後にもこれを指摘しましたが、無視されました(日本医科大学はこの事実を否定しています)。

 郡家医師は、医師としての良心から2年半後の2000年7月に手術ミスや不十分だった術後管理を遺族に伝えて陳謝しました。

 半年後の01年1月に読売新聞などがこれを報道し、遺族は同年5月、医療過誤だとして日本医大を相手に損害賠償請求訴訟を起こしました。

 ところが、01年12月、日本医大とA医師は、郡家医師が遺族に医療ミスがあったと告白したこと、これを報道機関に伝えたことが名誉毀損に当たるとして損害賠償請求訴訟を起こしたのです。報道による名誉毀損では、報道機関も訴えるのが普通ですが、今回の裁判は郡家医師だけを訴えるという異例なものでした。

 確立した判例によれば、名誉毀損の民事訴訟では、問題の事実を摘示した者、この場合は郡家医師側、がその事実の真実性を立証しなければなりません。また、その事実が公共の利害にかかわること、かつ目的が専ら公益を図るものであることが必要です。ただし、真実性の立証が出来なかったとしても、その事実を真実と信じたことについて相当な理由がある場合には責任(損害賠償など)は問われません。

 

 04年7月に東京地裁で判決がありました。判決はこの判例に沿って検討、問題の事実は医療事故とその隠蔽に関するもので公共の利害にかかわり、また、その摘示は治療行為に携わった医師として悩んだ上で自己の認識している真実を遺族に伝えようとしたもので、公益を図るものであるとしました。その上で、ワイヤが脳内に刺入された事実は立証されていないものの、郡家医師が刺入されたと考えたのは相当の理由があるとして郡家医師の責任を否定し、日本医大側の訴えを棄却しました。

 日本医大側控訴し、05年11月に東京高裁で判決がありました。

 判決は、ワイヤが脳内に刺入された事実は立証されていないとしただけでなく、郡家医師が刺入されたと考えたことも相当な理由はないとして1審判決を破棄し、郡家医師に対して総額550万円(利息を含めると700万円余)の支払いを命じました。郡家医師側の全面的敗訴でした。

 郡家医師は直ちに最高裁に上告しました。しかし、2006年7月6日、第1小法廷はこれを棄却し、2審判決は確定してしまいました。

 (医療過誤の裁判は05年1月に1審(東京地裁)で遺族側が敗訴し、控訴審となりました。07年3月に結審し、間もなく判決の見通しです

 

 日本医大問題は、治療に参加していた医師が過誤であったと認め、遺族にそれを伝えた稀な事例であり、しかも、その医師を病院が訴えるというのはおそらく初めてのケースでしょう。医師の世界,大学病院の密室体質ということが,これまでしばしば指摘されていますが、その中で、郡家医師は,勇気を振るって事実を遺族に伝えたのです。

 ところが、東京高裁はこうした郡家医師の行動を「不法行為」と断じ、最高裁はその判決を「問題なし」としのです。

 また、この裁判の最大の争点であるワイヤが患者の脳内に刺入したか否かについて、郡家医師側は2審までの間に4つの大学の脳外科、放射線科、口腔外科の医学者・専門医から「刺入している」旨の鑑定意見を提出しました。医療側のミスを指摘する意見書が4つの大学の専門家4氏からも提出されのは医療過誤裁判では異例のことでした

 しかし、東京地裁、高裁、最高裁はこうした意見書を一顧だにしませんでした

 郡家医師側は最高裁の段階で、全国の大学、病院の医学者・専門家36氏から得た刺入問題に関するアンケート調査の結果を追加提出しました。医療過誤訴訟においてこのような調査は「前代未聞」のことです。しかも、ほとんどの医学者・専門家が「刺入」と診断しており、「刺入していない」との日本医大の主張を支持した医学者・専門家は1人もいませんでした。これは「刺入」が医学的事実であったことを明確に物語っています。しかし、最高裁はこれも無視して郡家医師の訴えを棄却しました。

 

 結局、東京高裁の判決、これを容認した最高裁決定が持つ見逃せない問題は以下の2点に集約できます。

 

(1)医師が真実(あるいは真実と考えて当たり前のこと)を家族、報道機関に伝えることが名誉毀損に当たるとされてよいのか

(2)司法(裁判所)が医学者・専門家の見解をこんなにも無視してよいのか

 この2点は、日本の医療を患者・家族のためにこそあるものとして改めてゆく上で決して見逃しにはできません。そして、誤れる医療を正すべき司法がその役割を放棄していることにも厳しい目を向けてゆく必要があるでしょう。

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2:日本医大問題の経過

【1997〜98年】

12月 8日

高橋陽子さん、橋から転落し受傷。地元病院で、下顎骨骨折などと診断。同病院に入院

12月 9日

同病院に来ていた日本医大A医師の診断で、同医大付属病院で整復固定手術を受けることに決定。11日に同付属病院に転院

12月15日

A医師の執刀で下顎骨の骨折2カ所の整復手術(第1助手郡家医師、第2助手B医師)。術後間もなく高熱を発し、乏尿、無尿などの症状。敗血症、DIC(播種性血管内凝固症候群)発症の兆候

12月16日

病状悪化が進行。腹痛、下痢、熱発、乏尿等で苦しがる。夕方DIC治療開始。夜、「不穏」始まる。ほとんど一睡もできないぐらい苦しみ続ける

12月17日

病状、不穏状態がさらに悪化。午後、意識低下、血圧低下、救命処置に移行。しかし、午後4時45分ごろ心停止。蘇生処置を取るも午後6時51分死亡。死因は「DICによる多臓器不全」との説明。
その後、高橋さんの遺族・高橋純さんらが4回にわたりA医師らと面談。この際に,A医師らは医療ミスを認めなかった。

【2000年】

 7月18日

郡家医師が高橋さんと面談。郡家医師は,手術時にKワイヤを脳内刺入させてしまったこと,術後管理が不充分だったことを話し,高橋さんに謝罪。

12月27日

高橋さんが日本医大付属病院で証拠保全手続き実施

【2001年】

 1月 6日 

高橋さんが日本医大に本件の調査実施を求める申し入れ

 1月22日

読売新聞が報道。日本医大が記者会見

 2月 7日

郡家医師が記者会見

 5月17日

日本医大とA医師が郡家医師を名誉毀損で提訴。

【2002年〜2003年】

2訴訟がほぼ月に1度のペースで進行

【2004年】

 7月26日 

 名誉毀損訴訟で日本医大の請求棄却。日本医大が控訴

【2005年】

 1月31日 

医療過誤訴訟で高橋さん敗訴の判決

 2月 7日

高橋さんが高裁に控訴

11月 9日

名誉毀損訴訟で郡家医師が逆転敗訴。直ちに上告

【2006年】

7月6日

名誉毀損訴訟で最高裁が上告棄却。郡家医師の敗訴確定

10月〜12月

医療過誤訴訟で証人尋問(双方から医学者計4人)

【2007年】

3月28日

医療過誤訴訟が結審。判決日未定

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3:新聞報道

◆日本医大問題を報じた記事例の紹介(読売新聞社の記事、朝日新聞の社説は許可を得て掲載しています)

<2001年1月22日 読売新聞1面>
日本医大病院、手術事故隠し あご固定ワイヤが脳を突き刺す 
患者、2日後急死
遺族が提訴へ 病院側は事故を否定

 日本医科大学付属病院(東京都文京区)で一九九七年、あごの骨をつなぐ手術を受けた二十歳代の女性患者に対し、ワイヤを頭がい内に突き刺す医療事故が起き、二日後に急死したことが二十一日、分かった。当時の担当医の一人が「事故を隠していた」と女性の両親に告白し、発覚した。両親は事故とその後の管理のずさんさが死因とし、近く同病院を相手取り、損害賠償訴訟を起こす。
 埼玉県在住の両親によると、女性は同年十二月、橋から落ちて、右あごを骨折するなどした。事故の一週間後、同病院であごの整復固定手術を受けた。手術後、高熱や下痢などの症状が出たが、本格的な検査は行われなかった。二日後の朝、CT(コンピューター断層撮影法)で脳の画像を撮り、午後から緊急治療が行われたが、約二時間後に心停止した。執刀医は両親に「死因は多臓器不全で、常在菌に感染したため」と説明。脳内に出血痕もあったが、「転落事故によるもの」と話した。
 しかし、手術から二年七か月後の昨年七月、当時の担当医の一人が父親を訪ね、「事故を隠していた」と謝罪した。医師は「右あごの骨にワイヤを入れて固定する際、執刀医が誤って脳内に突き刺した」と打ち明け、「感染や髄膜炎などの危険性があったのに、処置を怠り、家族にも知らせなかった」と告白した。医師によれば、医局内では事故を伏せ、矛盾がないようカルテや家族への説明内容についても申し合わせたという。
 両親は先月、カルテなどの証拠保全を行い、レントゲン写真も入手。写真を見た複数の脳外科医は「最低でも一センチ程度は頭がい内に刺さっている。脳内の出血があるのに、家族に説明しないのは間違い」と話す。
 両親は今月初旬、日本医大と同病院に事故調査委員会の設置を求め、提訴の準備を進めている。読売新聞社の取材に、執刀医は「事故自体が寝耳に水」とし、医局の教授も「事故はなかった」と否定している。
 日本医科大学付属病院の話「顧問弁護士と相談の上で対応したい」

<2001年1月22日 読売新聞社会面>
日本医大病院の手術事故隠し 
「告白」選んだ担当医 未来閉ざされても…
遺族「2度死なせた思い」

 「こんな医療が許されていいのかと、ずっと思ってきた」。日本医科大学付属病院(東京都文京区)での事故隠しが明らかになったが、両親に告白した担当医は、読売新聞社の取材に、心境をこう語った。大学病院の権威に逆らう不安感と、良心のはざまで悩んだ末、告白を決意した医師は「閉鎖的な大学病院の実態を今、変えなければ」と訴える。
 一九九七年十二月十五日、同病院の手術室。執刀医が二十歳代の女性のあごの骨をつなぐため、ワイヤを入れた。そばで見ていたこの医師には、ワイヤが急に奥に入ったように思えた。急いでレントゲン写真を撮った。
 それを見て、「先生、(頭がい内に)入っているよ」と声を上げた。脳内を傷つけていれば、感染や髄膜炎などの危険性がある。だが、執刀医は「大丈夫」と答えただけだった。
 女性は運動好きで、エアロビクスで体を鍛えていた。手術の朝も、食事以外、日常生活に支障はなかった。両親は、単純な骨接ぎ手術で娘が急死したことが信じられず、「常在菌に感染した結果」との説明にも納得できなかった。
 実は急死した夜、この医師は病院内の会議室で、レントゲン写真やCT(コンピューター断層撮影法)写真をひそかに自分のカメラで撮り直した。「何かが間違っている」「事故が隠ぺいされてしまう」。そんな思いに駆られての行動だった。
 ミスを明らかにしようと、両親に解剖を申し入れた。だが、「これ以上娘の体を切り刻むのは」と拒否され、医局の教授には「そういうことは言わなくていい」とたしなめられたという。「大学病院を敵に回し、手術ができる職場を奪われたら」と思うと、遺族にはそれ以上言い出せなかった。
 この医師は九八年の春、大学病院の関連病院に派遣されたが、事故を忘れることはできなかった。事故から二年七か月後の昨年七月。各地で相次ぐ医療事故の報道に接し、「このまま見過ごせない」と、告白を決意した。
 医師は父親と会い、三時間以上かけて手術室での出来事を話し、レントゲン写真やCT画像を複写した写真も見せた。
 クリスチャンの父親は医師の肩を抱き、「顔をあげて下さい。苦しまんで下さい。神様がとうとう本当のことを教えてくれた」と泣いた。そして「(事故隠しを聞いて)娘を二度死なせた気がする」とつぶやいた。
 レントゲン写真やCT画像を見た別の大学病院の複数の脳外科医は、ワイヤが頭がい内に達していることを確認し、「脳内に出血もあるのに、家族に事実を伝えないのは間違っている。容体が急変したのに事故との関連を追及しない姿勢も問題」と指摘する。
 しかし、執刀医も医局の教授も「事故の認識はない」とし、教授は告白した医師に、外部にはしゃべらないよう手紙を送っている。
 「医師としての未来が閉ざされたとしても、良心に恥じることはしたくない」
 この医師の苦悩に、大学病院はどうこたえるのか。

<2001年1月23日 読売新聞社会面>
日本医大付属病院の手術事故隠し 調査委を設置へ

 日本医科大学付属病院(東京都文京区)で一九九七年、ワイヤが頭がい内に入る医療事故が起き、二十歳代の女性患者が二日後に急死したとされる問題で、同病院は二十二日、会見を開き、調査委員会を設置して、来月中旬をめどに調査結果を公開することを明らかにした。死因などについては外部にも評価を依頼する。
 一方、この日、女性患者の父親(58)(埼玉県在住)も会見。「間違いは起こるものだが、それを患者側に伝え、反省してもらわなければ医療過誤はなくならない。病院には、事実を認め、今後の事故防止に努力することを求めたい」と訴えた。

<朝日新聞社説 2001年1月28日>
医療事故隠し 罪ははるかに深い

 患者思いのお医者さん、慎重な看護婦さんでも、思いがけない条件が重なれば事故は起こる。それが医療の宿命だ。
 大切なことは、それを、包み隠さず当事者に告げて率直にわびること、元へ元へとたどって原因をつきとめ、悲劇を二度と起こさない対策を広めることだ。それは、愛する者の死が無駄になったわけではない、と遺族の心をいやすことにもつながるだろう。
 だが、日本では医療事故隠しが横行している。最近も、日本医大の形成外科であごの骨を修復する手術を受けた若い女性が急死したことについてのいきさつを、手術の助手役をつとめた医師が家族に告白し、謝罪したことが明るみに出た。
 告白した医師は、3年前の手術直後から悔やんでいたが、かわいい盛りになったわが子を見るにつれ、娘を失った両親に真実を告げなければという気持ちが募ったという。
 この件でふに落ちないのは、先のとがったワイヤが過って脳に突き刺さった可能性があるのに、脳外科と協力した形跡がないことだ。同様の事故が起きても、脳外科医との連携でことなきを得た例もある。
 病院側はミスを否定している。しかし、手術後2日で亡くなるという形成外科としては異例の事態にも、原因解明の努力が見られないのはどうしたことだろう。
 このようなことは、日本の大学病院に相当する先進国の「教育病院」では、まず考えられない。5年前に地元新聞をにぎわした米国のベン・コルブ少年の場合はこうだ。
 7歳の少年は、ごく簡単な手術のため手術室に入り、医師が注射したとたん血圧が急上昇して、亡くなった。病院は調査チームを直ちに編成し「全力をあげて死の原因をつきとめる」と家族に約束した。3週間後、原因がわかった。手順に弱点があり、取り違えられた注射薬が医師に手渡されたためだった。
 事実を知らされた家族がまず尋ねたのは、少年が苦しんで死んだのかどうかだった。全身麻酔をかけてあったので苦しむことはなかった、という説明を受けた家族はほっとした表情をし、「同じ間違いが二度と起こらないように、ベンが亡くなったいきさつを世間に広く知らせてほしい」と頼んだ。病院は事故の詳細を公表し、両親とともに同様の事故が起きないための活動をしている。
 日本でも、患者に十分な選択肢や情報を示し、一緒に考えながら治療に取り組む「インフォームド・コンセント」が、医学部で教えられるようになった。
 しかし、講義でいくら教えても、先輩たちがそれを実践しなかったり、正反対の態度を取ったりしたらどうなるか。「医療訴訟を起こされると面倒だから、患者には何も言わなくてよい」という実例を見せつけられたら、「自分のミスで患者が死んでも黙っていれば分からない」と、責任逃れして恥じない医師を再生産してしまうだろう。
 医療事故を隠せば、事故から学ぶチャンスは永遠に失われる。事故隠しは、事故そのものよりもはるかに罪が深い。医療にかかわる人たちは、そのことを自覚してほしい。

<2001年2月8日 読売新聞社会面>
ミス隠す 「脳にワイヤ」手術助手担当医師が証言 日本医大病院

 日本医科大学付属病院(東京都文京区)で1997年、あごの骨の手術中にワイヤが頭がい内に入る事故があり、20歳の女性患者が2日後に急死したとされる問題で、事故を遺族に告白した当時の担当医が7日、都内で会見。「医療事故の報道や自分の子供が大きくなる姿に触れ、真実は隠せないと考えた」などと、事故の状況や心境を語った。同病院は現在、調査委員会を設置、事実関係を調べている。

<2001年2月20日 読売新聞解説面>
日医大病院「事故なし」の中間報告 原因検証が責務 遺族に十分説明を

 日本医科大学付属病院は、あごの手術を受けた女性患者が急死した問題で、「事故はなかった」との中間報告をまとめた。だが、多くの疑問が残された。
 「この件を教訓とし、今後はきちんとした対策を取っていきたい」「患者の死を重く受け止め、事実関係の解明後、遺族にはおわびしたい」
 十九日の会見で、隈崎達夫病院長はこう明言した。ワイヤが頭がい内に刺さったことは否定したが、外部委員による評価委員会の設立を含め、問題点の解明と改善に全力を尽くすと語った。
 一方で、遺族は「科学的根拠に欠けた内容」と強く反発する。そもそもこの問題は、当時の担当医が「事故を隠し、急変後の対応も不十分だった」と告白、それを聞いた遺族の「簡単な手術で娘が二日で急死した真相を知りたい」との思いから始まった。
 この担当医は、手術室などで事故の疑いを訴えたが、耳を貸す医師はいなかったという。急変後も病院側は脳外科や内科などと連携し、十分な治療に当たった形跡はない。CT(コンピューター断層撮影法)画像では脳内に出血痕も見つかったが、「手術とは無関係」とされた。
 同病院が事故関係調査委員会を設置したのは、手術から三年一か月後の先月中旬。遺族側が訴訟を前提に、事実解明を文書で求めた後だ。しかも、調査委の代表には、手術の当事者の一人である副病院長が就任した。
 病院は、今回の問題が報道されたその日の会見で「事故はなかった」と断言したうえで調査を進めた。複数の専門医が、事故や治療のずさんさを指摘している中で、「初めに結論ありき」の感は否めない。
 それにしても、遺族が証言や専門医の意見を集め、病院と対決して初めて、調査が行われる現状は、適切とは言い難い。
 米国の医療過誤問題に詳しい李啓充・ハーバード大学医学部助教授は「米国であれば、今回の症例は間違いなく院内の検討会議にかけられた」と指摘する。米国の教育病院(大学病院など)では、予期せぬ形で患者が死亡した場合、医師らがオープンに原因を討議し、再発防止を検討する制度がある。
 「原因を徹底検証し、失敗から学ぶのが大学病院として当然の責務。それを怠ったら、研修・教育病院の名が泣きます」
 米国の事故防止対策の典型例とされるのが、五年前、フロリダ州の病院で簡単な耳鼻科の手術を受けた少年が、二十四時間後に死亡したケースだ。病院長は直ちに調査チームを編成し、調査結果は、遺族の同意を得て公開された。少年の追悼のため、病院が主催したフォーラムのテーマは「doing the right thing(正しいことをする)」だった。
 日本の医療現場にも、問題が発生した場合の再発防止のシステム作りと「説明責任」の確立が強く求められている。

<2004年7月27日 読売新聞社会面>
手術事故隠し 日本医大賠償請求棄却 手術事故隠し/東京地裁

 日本医科大付属病院(東京都文京区)で一九九七年、手術を受けた女性(当時二十歳)が死亡した問題で、同大と執刀医が「虚偽の情報をマスコミに流され、名誉を傷つけられた」として、手術に立ち会った同病院元医師の郡家(ぐんげ)正彦医師(46)に計1億3000万円の賠償を求めた訴訟で、東京地裁は二十六日、請求を棄却する判決を言い渡した。林道晴裁判長は「記者会見での情報提供などに故意・過失はなく、名誉・信用棄損は成立しない」と述べた。
 判決によると、女性は同年十二月に下あごの骨などを折り、同病院で手術を受けたが、二日後に死亡。手術で助手を務めた郡家医師が二〇〇〇年六月、読売新聞記者に「脳にワイヤが刺さり、患者が死亡する事故があった」と告白。記者を通じ、遺族に連絡を取った。その後、読売新聞の二〇〇一年一月二十二日朝刊などの記事をきっかけに、新聞、テレビ各社でこの問題が報じられた。
 訴訟では、郡家医師による報道各社への内部告発が、同大の名誉や信用を棄損したかが争われた。林裁判長は「医師の情報提供は記事作成の端緒となったが、どのような記事をまとめるかは新聞社の判断と責任」と指摘し、医師の不法行為を認めなかった。一方、告発した医療ミスに関する情報については「脳にワイヤが刺さったことや、これが原因で病状が変化したことを認める証拠はない」と真実性を否定したが、「郡家医師が真実と信じた相当の理由があった」とした。
 郡家医師は会見し、「事実認定には不満だが、請求が棄却され、ほっとしている。事故の公益性を考えて情報提供した」と語った。同大広報課は「判決文を見ていないので、コメントは控えたい」としている。

<2005年11月10日 読売新聞社会面>
「日本医大で手術ミス」 告発医師 逆転敗訴 
東京高裁が賠償命令事故隠し

 日本医科大付属病院(東京都文京区)で1997年に手術を受けた女性(当時20歳)が死亡した問題を巡り、同大と執刀医が「手術ミスを隠したと虚偽の情報をマスコミに流され、名誉を傷つけられた」として、内部告発した同病院元医師の郡家(ぐんげ)正彦医師に計3000万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が9日、東京高裁であった。江見弘武裁判長は、請求を棄却した東京地裁判決を変更、計550万円の賠償を命じた。郡家医師側は上告する方針。
 1審は「手術ミスはなかった」とする一方、「ミスがあったと郡家医師が信じる相当の理由があった」として、名誉棄損を認めなかった。これに対し、2審も1審同様、手術ミスを否定した上で、「手術ミスと矛盾する事実があったのに郡家医師が検証していない」と指摘。「手術ミスを信じる理由があったとは認められない」と結論づけた。
 2審判決によると、女性は97年12月、下あごの骨などを折って同病院で手術を受けたが、2日後に死亡。手術助手を務めた郡家医師が2000年6月、読売新聞記者に「脳に手術用のワイヤが刺さり、患者が死亡した」と告発、読売新聞など新聞、テレビが手術ミスと報じた。

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4:報道までの経緯(裁判の傍聴メモから)

郡家医師と記者の接触について
 日本医大問題を最初に報道したのは読売新聞ですが、同紙記者と郡家正彦医師が初めて会ったのは、2000年6月30日です。当時、同紙社会面で連載していた「続・医療過誤」という企画記事(計5回)に対し、医療従事者や患者ら100人以上の読者から反響や感想があり、その中に郡家医師からの連絡が含まれていました。それは実名によるもので、匿名がほとんどのなか、珍しかったそうです。「日本医大病院に勤務していた時の経験が忘れられない。若い女性患者に極めてずさんな手術・治療を行い、死なせてしまったが、今も事実を伏せている。両親に事実を伝えたいが、探す術がない」との主旨でした。
 数日後、担当記者は郡家医師の勤務する伊勢崎市民病院(群馬県伊勢崎市)を訪ね、2時間ほど話を聞いたそうです。郡家医師は「今も悩み続けている件があります」と切り出し、高橋さんの娘の陽子さんの手術中にワイヤを脳に突き刺す事故が起きたこと、そのアピールが医療現場で無視されたこと、陽子さんの容体が急変しても十分な対応がとられず、自分が当直先から駆けつけた時には手遅れだったこと、一連の経緯を病院側は隠したこと――などを明かしました。そして「連載を読んだことが、両親に事実を伝え、謝罪する勇気につながった」と話しました。

群家医師の意図
 新聞社には医師からの内部告発が頻繁に届くものの、匿名で文書を送ってくるか、氏名や所属を明かさない前提で話をする方が大半です。「匿名性」を担保しなければ身を守れない現実があるためで、初めから実名を名乗った郡家医師は、かなりまれなケースだったそうです。
 その理由として、郡家医師は記者に、「陽子さんの両親を探す術がない。伊勢崎市民病院にいる自分の立場では、いきなり日本医大病院を訪ねて、カルテや資料を探し出すのは不可能だ。自分の話を信用してもらうには、実名を示すしかないと思った」と思い詰めた表情で答えたそうです。
 また、郡家医師は、「僕の考えや行動は間違っているでしょうか」「事実を告げることは大学の批判になる。正直言って怖い。でも、良心を偽った医師でいたくない」と、何度も問いかけたそうです。自分の体験が今、社会的にどんな意味を持つのかという自問、大学病院の医療に対する危機感、「このままではいけない」という切羽詰まった思い、大学を敵に回す恐怖心などの間で葛藤する医師の様子が伺えた、と記者は述べています。
 「郡家医師には、医療過誤問題と社会との<つなぎ役>である新聞記者に相談することで、自分なりの答えを見つけたいという思いがあったのではないか」とも、記者は述べています。郡家医師が「新聞で報道してほしい」と記者に依頼したことは1度もなく、むしろ、自分の行為が本当に陽子さんや両親のためになるのかどうか、郡家医師は戸惑っていたそうです。
 記者は、郡家医師の「両親に事実を伝え、謝罪する」という意図を理解し、仕事の合間を縫って、陽子さんの両親を探し始めました。「父親は報道機関に勤めていた」「陽子さんは日本医大病院に入院する前、埼玉県鴻巣市の民間病院で治療を受けていた」との郡家医師の情報から、マスコミ各社の古い社員名簿などを使って、かつて時事通信社外報部の記者だった高橋さん(現在は関連会社勤務)を割り出し、同社の外報部にいる知人を通じて接触しました。
 高橋さんの自宅や職場を直接、訪ねなかったのは、記者が郡家医師から「両親の嘆きぶりは直視できないほどだった。母親は、まだ立ち直れていないかもしれない」と聞いていたためです。話の内容がショッキングなだけに、最も精神的なショックが少ない方法を選んだそうです。記事の掲載までに半年を要したのも、高橋さん夫妻の同意を待ったためで、郡家医師の思いを尊重した結果とも言える、と記者は述べています。

郡家医師と高橋さんの対面
 2000年7月18日、郡家医師と高橋さんは新聞社の本社内で対面しました。話は3時間半にも及びました。郡家医師は、自分のカメラで撮影し、保管していたC高橋やレントゲンの写真などをもとに日本医大病院での出来事を克明に再現し、高橋さんの疑問にもすべて的確に答えていました。そして、「すみませんでした。あの時、本当のことが言えなくて」と泣き、「きっかけが欲しかった。恐怖がありました。やっとその恐怖にうち勝つ勇気が持てました」と話しました。高橋さんは、陽子さんの写真を胸ポケットから取り出し、「とうとう神様が本当のことを教えてくれた。娘のことを。あなたのことは怒ったりはしません。本当のことを教えてくれたのだから。だから、苦しまんで下さい」と語りかけると、郡家医師の肩を抱き、何度も頭を下げました。
 同年8月18日、2人は再び、新聞社本社で対面しました。この時の主な話は、陽子さんの入院のきっかけになったノイローゼ回復期の飛び降り行為が、手術や死因に影響してはいなかったかという、高橋さんの最後の疑問についてでした。郡家医師は自分の見解を示し、医師や看護婦が陽子さんの既往に気づいていたことを明かしました。この時点で、郡家医師の目的は果たされました。
 一方で、高橋さんは、一連の話をまだ、家族に話せずにいました。奥さまや息子さんたちのショックを慮り、伝えるべきかどうかを決めかねていたためです。家族の意志が「証拠保全をして、真相を知る」ことで一致した10月、記者は、高橋さんから「よい弁護士を教えてほしい」と相談され、藤田康幸弁護士を紹介しました。そして、記者自身も「事実の究明に協力したい」「紙面で社会に問う時が来るかも知れない」と考え、この時から証言の裏付け取材を始めました。

新聞の編集権等
 日本医大側の2001年12月26日付け訴状には、この件を扱った新聞の記事(2001年1月22日付け朝刊)について、「上記虚偽の内容の記事は、被告が直接あるいは本件患者の遺族を使って陽子新聞社に内容虚偽の説明、情報提供したことによるものである」との記述があります。
 記者が裁判で強調していたのは、この記述に「新聞が、情報提供者の話を検証も裏付けもなく、紙面に掲載している――との誤解がある」という点です。記者によると、情報提供によって始まる取材は、何よりその裏付けがカギとなります。そして、その情報が事実と判断でき、多面的な取材で得た内容が紙面で訴えるべき社会性を有していると判断した場合は、情報提供者の意図が何であるかに関わらず、紙面化することを検討します。提供された情報は、取材のきっかけに過ぎず、それをどう扱い、記事にするかについて、新聞社には、取材・報道の自由に基づく「編集権」がある、というのです。
 一部週刊誌などに、十分な取材を行わずに推測で書かれていたり、「面白ければよい」との視点で書かれたりした記事がある残念な事実があるとした上で、記者は以下の点を強調しています。新聞記事が成立するレベル、記者のモラルは、「内容虚偽の説明、情報提供」を、「内容虚偽」と分かりながら引用することを認めない、ということです。「当たり前のことですが、その倫理感が基本にあるからこそ、新聞は日本社会において、国民から一定の信頼を得ることができていると自負している。」と記者は述べていました。
 そして、日本医大が、この記事について、「提供された情報を鵜呑みにし、情報提供者の(悪意のある)意図をそのまま受け入れて書いた」と考えているのであれば、極めて遺憾に思う、と話しました。

記事掲載の経緯
 記事を掲載する前、記者は、(1)ワイヤが脳に刺入したか、(2)日本医大病院の治療や姿勢に問題があったか――について取材したそうです。この問題の本質は、「なぜ娘は死んだのか」という家族の疑問に応えない不誠実な医療の実態にあると考えたものの、刺入問題は郡家医師の証言の核となると判断しての取材だとのことです。
 まず、記者は、郡家医師が所有していた陽子さんのC高橋やレントゲン(郡家医師が本物を自分のカメラで撮影したもの)をプリントし、2000年12月までに、3人の脳外科医に見てもらいました。さらに、同月、高橋さんが、証拠保全により、記者の所持していたものより画質のよいC高橋やレントゲンを入手したため、2001年1月、これらを診療記録類と共に4人の脳外科医に示しました。計7人の医師は、大学教授、講師、技量に信頼が置ける大学病院の第一線の医師たちで、いずれも日本医大病院の名前や、証拠保全に至る経緯を伏せて見解を求めました。
 その結果、全員が刺入を認めました。高橋さんが提訴している損害賠償訴訟で提出された、慶応大学医学部・脳神経外科客員教授の塩原隆造氏の鑑定意見書や医真会八尾総合病院の森功院長の自主的な鑑定意見書、裁判所に提出されたその他の医師らの鑑定意見書と同じ意見でした。
 また記者は、この7人から、「ワイヤが脳に刺さる事故が起き、患者が急死したのに、死因との因果関係を探求しようとしない姿勢は、科学者として疑問」「記者なら、事故を家族に説明したうえで、急変にも備えた」「対応が後手後手にまわり、ずさん極まる」「病院が事故すら否定し、この医療に何の問題もないとするなら、訴訟で明らかにすべきだ」などの意見を得ました。医師たちの質問や疑問点を郡家医師に照会すると、端的で説得力のある説明があり、証言の信憑性は高まったそうです。一方で記者は、郡家医師の人間性や評判についての取材も進めました。
 これらと平行して、記者は、2001年1月9日、日本医大病院を訪ね、陽子さんの手術の執刀医であるA医師を取材しました。翌10日には、担当科のH教授とも会いました。この件で、両者の取材は不可欠であり、その主張を聞かずに、一方的に記事を書くことはできないとの判断からです。A医師と面会するには半日かかったそうです。同医師は、当初、「コメントは差し控えたい」と繰り返していたものの、最後は「事故は寝耳に水で、高橋さんに伝えてもらってもよい」と話しました。
 H教授は、CTやレントゲンを自分の目で確かめたことを認めましたが、事故については「Aからそういう報告は受けていない」とだけ答え、「事故はなかったと断言できますか」と尋ねると、「その時、手術室にはいなかった。絶対とは言えない」との回答だったそうです。ただ、その後、「(事故は)晴天の霹靂」「顎関節の先は簡単にワイヤが刺さる所ではない。ワイヤもそんな道具ではない」などの話が記者にあったため、事故を否定したと記者は判断したそうです。
 陽子さんの死因については、「どっかにぶつけて、2日後に死ぬこともある。何が原因か。可能なことは考えたが、分からなかった」「(死因とみられる)DICは感染があればどこでも起きる。扁桃腺や肺炎、手術をしただけでも起きる」「CTでは、頭蓋内に広範囲の梗塞があったが、古い傷との診断で、遅発性という結論だった」などの説明があり、死因の解明は行われていないことが記者には分かりました。両者の談話は、趣旨を曲げることなく、紙面にも記載されています。
 「この件は紙面で社会に問うべき」と考えていた記者は、2000年12月時点で、高橋さんに「記事化を検討したい」と申し入れていました。即断を求めるものではなく、すべての取材を総合判断し、再度、高橋さんと相談するつもりだったとのことです。2001年1月中旬ごろ、記者が最終的な取材結果や記事化の意向を伝えると、高橋さんから「匿名での掲載なら」との同意が得られました。記事は、この件を一緒に検討してきた医療問題の担当デスク、提稿当日の当番デスクらのチェックを経て提稿され、見出しは編成部との協議のうえで決定したそうです。

記者会見等
 新聞の記事掲載後、日本医大病院は、記者会見を開きました。マスコミ各社が殺到したため、適切な対応をとったのです。
 これと同様に、郡家医師や高橋さんに対し、各社からの問い合わせが予想されることについて、記者は報道の1週間ほど前に両人に伝えたそうです。その際、郡家医師からは「伊勢崎市民病院の多数の患者に迷惑をかけられない」との相談があり、高橋さんからも対応について助言を求められたそうです。記者は、「取材には何らかの形で応じた方がよい。記者会見も有効だ」と話したそうです。
 2人はその後、会見を開いたり、文書を配布したり、時間を指定して取材に応じたりしていました。これについて、いたずらな混乱を避ける最良の方法だったと記者は認識しています。

最後に記者が強調したこと
 最後に、記者は以下の点について、強調していました。この訴訟の被告が、記事を掲載した新聞社などマスコミ各社ではなく、情報の提供者(取材対象者)としての郡家医師であることに、違和感を覚えている、ということ。医療機関の閉鎖体質、隠蔽体質が指摘されて久しく、医療事故や不誠実な医療の実態が、当事者や関係者からの告発でしか発覚しないケースも多々ある中、医療過誤問題に携わる記者としては、この提訴が、大学病院内外の医師らに「見せしめ」として位置付けられないことを望んでいる、ということ、です。

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