日本医大問題とは、1997年12月15日に、日本医大附属病院形成外科で下顎骨整復固定手術を受けた埼玉県の高橋陽子さん(当時20歳)が、手術後2日で急死したことが発端です。
助手を務めた郡家正彦医師は手術中に骨折固定用のワイヤが脳内に誤って刺入されたのを目撃、執刀医のA医師にその場で、また、術後にもこれを指摘しましたが、無視されました(日本医科大学はこの事実を否定しています)。
郡家医師は、医師としての良心から2年半後の2000年7月に手術ミスや不十分だった術後管理を遺族に伝えて陳謝しました。
半年後の01年1月に読売新聞などがこれを報道し、遺族は同年5月、医療過誤だとして日本医大を相手に損害賠償請求訴訟を起こしました。
ところが、01年12月、日本医大とA医師は、郡家医師が遺族に医療ミスがあったと告白したこと、これを報道機関に伝えたことが名誉毀損に当たるとして損害賠償請求訴訟を起こしたのです。報道による名誉毀損では、報道機関も訴えるのが普通ですが、今回の裁判は郡家医師だけを訴えるという異例なものでした。
確立した判例によれば、名誉毀損の民事訴訟では、問題の事実を摘示した者、この場合は郡家医師側、がその事実の真実性を立証しなければなりません。また、その事実が公共の利害にかかわること、かつ目的が専ら公益を図るものであることが必要です。ただし、真実性の立証が出来なかったとしても、その事実を真実と信じたことについて相当な理由がある場合には責任(損害賠償など)は問われません。
04年7月に東京地裁で判決がありました。判決はこの判例に沿って検討、問題の事実は医療事故とその隠蔽に関するもので公共の利害にかかわり、また、その摘示は治療行為に携わった医師として悩んだ上で自己の認識している真実を遺族に伝えようとしたもので、公益を図るものであるとしました。その上で、ワイヤが脳内に刺入された事実は立証されていないものの、郡家医師が刺入されたと考えたのは相当の理由があるとして郡家医師の責任を否定し、日本医大側の訴えを棄却しました。
日本医大側が控訴し、05年11月に東京高裁で判決がありました。
判決は、ワイヤが脳内に刺入された事実は立証されていないとしただけでなく、郡家医師が刺入されたと考えたことも相当な理由はないとして1審判決を破棄し、郡家医師に対して総額550万円(利息を含めると700万円余)の支払いを命じました。郡家医師側の全面的敗訴でした。
郡家医師は直ちに最高裁に上告しました。しかし、2006年7月6日、第1小法廷はこれを棄却し、2審判決は確定してしまいました。
(医療過誤の裁判は05年1月に1審(東京地裁)で遺族側が敗訴し、控訴審となりました。07年3月に結審し、間もなく判決の見通しです)
日本医大問題は、治療に参加していた医師が過誤であったと認め、遺族にそれを伝えた稀な事例であり、しかも、その医師を病院が訴えるというのはおそらく初めてのケースでしょう。医師の世界,大学病院の密室体質ということが,これまでしばしば指摘されていますが、その中で、郡家医師は,勇気を振るって事実を遺族に伝えたのです。
ところが、東京高裁はこうした郡家医師の行動を「不法行為」と断じ、最高裁はその判決を「問題なし」としたのです。
また、この裁判の最大の争点であるワイヤが患者の脳内に刺入したか否かについて、郡家医師側は2審までの間に4つの大学の脳外科、放射線科、口腔外科の医学者・専門医から「刺入している」旨の鑑定意見を提出しました。医療側のミスを指摘する意見書が4つの大学の専門家4氏からも提出されのは医療過誤裁判では異例のことでした。
しかし、東京地裁、高裁、最高裁はこうした意見書を一顧だにしませんでした。
郡家医師側は最高裁の段階で、全国の大学、病院の医学者・専門家36氏から得た刺入問題に関するアンケート調査の結果を追加提出しました。医療過誤訴訟においてこのような調査は「前代未聞」のことです。しかも、ほとんどの医学者・専門家が「刺入」と診断しており、「刺入していない」との日本医大の主張を支持した医学者・専門家は1人もいませんでした。これは「刺入」が医学的事実であったことを明確に物語っています。しかし、最高裁はこれも無視して郡家医師の訴えを棄却しました。
結局、東京高裁の判決、これを容認した最高裁決定が持つ見逃せない問題は以下の2点に集約できます。
(1)医師が真実(あるいは真実と考えて当たり前のこと)を家族、報道機関に伝えることが名誉毀損に当たるとされてよいのか
(2)司法(裁判所)が医学者・専門家の見解をこんなにも無視してよいのか
この2点は、日本の医療を患者・家族のためにこそあるものとして改めてゆく上で決して見逃しにはできません。そして、誤れる医療を正すべき司法がその役割を放棄していることにも厳しい目を向けてゆく必要があるでしょう。
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